川崎市にて、
凄惨な事件が起きてしまいました。
秋葉原で起きた、
連続通り魔事件が脳裏によぎりました。
人は誰しも、
誰かを殺してしまいたいという
思いを持ってしまうものです。
もちろん、一度もこの感情が
沸き起こることなく
一生を終えるかたもいらっしゃるでしょう。
ですが、
そのような思いを踏みとどまれる人が
ほとんどであることも事実であり、
踏みとどまれない人は、
なぜ踏みとどまれないのかを
論じなければ、このような事件は
繰り返されるのかもしれません。
ここで、秋葉原連続通り魔事件を
振り返ってみたいと思います。
ここで2つの視点を提示します。
加藤被告の視点(被告の自叙伝の批評)
加害者家族の視点(被告の弟の声)
凄惨な事件が起きるたびに生まれる
4つの立場。
加害者と加害者家族。
被害者と被害者家族。
その立場に立たなければ、
そして考えてみようとしなければ
見えてこない事実があります。
なぜ、人の命を殺めるという一線を
超えてしまえるのか?
今まで多くの凶悪な事件の被害者の
生い立ちや分析などの書籍を読んできました。
全てがそうだとはもちろん言えませんが、
共通項が見えてきます。
それは、『繋がり』です。
社会的な繋がりと精神的な繋がり。
これは、他人から見ての評価ではなく、
あくまで加害者の個人的な感覚です。
クローズアップされるのは、
育ってきた家庭環境という生い立ち。
ですが、周囲から見て
幸せそうなごくごく普通の家庭という
見方もされることもあります。
むしろエリートである加害者もいます。
しかし、重要なことは
『本人がどう感じたか』であるように思うのです。
加害者よりも悲惨と思われるような
過去の生い立ちを持ちながら、
立派に社会生活を送る人もいます。
同じような生い立ちを持っていたとしても
その時その瞬間に、『繋がり』がなくなったと
『感じた瞬間』に一線を超えてしまう
のではないかと思うのです。
親から見捨てられたと『感じた』
誰からも愛されていないと『感じた』
自分に何の価値も無いと『感じた』
自分が世界で最も孤立していると『感じた』
人は誰しも、大なり小なりコミュニティに属しています。
自分を属させるコミュニティの数と『質』が
豊かになればなるほど、幸福感は増していきます。
逆に属するコミュニティの数が限定され、
そしてその『質』が劣悪なものになると
人は選択肢を奪われるのです。
戦争がこれ以上なく不幸なのは、
殺すか殺されるかという選択肢しか
なくなってしまうことにあると
私は考えています。
そして、その先にあるのは
『絶望』と『復讐心』です。
『衣食足りて礼節を知る』
この言葉に加えて、私は
『敬愛足りて人と成り得る』
を加えたいと思います。
これらはすなわち、
『希望』です。
『希望』という選択肢が与えられなければ、
人は人として生きられないのでは無いかと。
これは、個人的の問題であると
弾劾したとしても解決できないものです。
教育と政治、根深い課題が複雑に
絡み合って起こった事件だと考えます。
戦後、悪い意味で教育から思想や哲学が省かれ
人がどのように生きるのか?
人は何のために生きるのか?
これらの問いに対して考える土台が
学校教育の中で育まれない現状があります。
では、自分の命を何のために使うのかという
人生の問いに誰が答えてくれるのでしょうか?
この問いにこそ、アクティブラーニングが
必要だと感じるのです。
日本という国においては、
他国に比べればとてつもなくマシである
経済社会が事実としてあります。
しかし、日ごとの糧を得られない
経済状態の人がいるのも事実なのです。
教育と政治の両面から、
今回の事件や過去の事件を通して
学ぶべき改善すべき早急の課題が
山積していると感じる、今日この頃です。