じゅくちょーの雑談

納得を求める!?

 

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今日のお品書き

『納得を求める!?

 

大学入試共通テストまで、あと227

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世界陸上大会で銅メダリストとなった

ハードル競技の為末大さん。

氏の引退後のスポーツ観や人生観は非常に興味深く

ブログをチェックさせていただいています。

 

そんな膨大にある記事の中で、

生徒たちにも通じるものがあるなと思ったものを

ご紹介しようと思います。

「納得とは何か?」:為末大(2014年12月28日)

 

私の興味は

人間らしさとはなにかという問いに行き着くことが多いのだけれど、

その中でも納得感というのはとても興味深い。

人生の成否は

死ぬ間際に納得したかどうかで決まるという人もいるぐらいで、

納得感を持って生きていくことと幸福感もかなり近い。

にも関わらずどうすれば自分は納得できるのかを

自分で掴むことは難しい。

 

例えば

どうしても歌手になりたかった人がいて、

一人は懸命に努力して努力した先にやっと歌手になった。

もう一人は歌手になりたいと思ったと同時に

親戚の音楽関係者が働きかけてくれて歌手になった。

一体どちらの方が歌手になれた喜びが大きいのか。

目的を達成することが一番なのだけれど、

そのプロセスも喜びに大きく影響する。

 

人工知能が発達し、ほとんどの夢が叶えられる時、

私たちは幸福だろうか。

人工知能が勝手に出した答えと自分で悩んで出した答え、

たとえそれが同じであっても

実感はどちらの方にあるだろうか。

全てが円滑に行われる時、

私達はその人生を実感を持って生きている

と感じられるのだろうか。

 

10年経ってまだ歌手になれていない30歳の若者は

一体何歳まで歌手を目指せばいいのだろうか。

いつ私達は夢を諦めればいいのか。

答えはない。

無いけれども仮に夢は叶わなかったとしても、

若者は納得したいのではないかと思う。

自分はやるだけやったんだと、

それでもだめだったんだと、

納得したいのではないかと思う。

 

東大の先端研究所の教授で中邑先生という方がいて

こんな話をしてくれた。

ある障害者の方の車椅子を作った時、

体に合わせたはずの肘掛の高さが気にくわないと言う。

高すぎるというから、

下げてみると今度は低すぎると言う。

上げてみて座ってもらうと今度は高すぎると言う。

高すぎる、低すぎる。

何度もそれを繰り返して

そうそうこの高さがいいと言ったのは、

最初の高さと同じだった。

 

そのプロセスは無駄だった

とも言えるかもしれないが、

本人の納得感は違うだろう。

納得のプロセスは外からは無駄に見えて、

本人にとっては大事な儀式でもある。

 

全てが完璧に計算され

自分にぴったりと合ったものが提供される時代では、

納得感はどこにいくのだろうか。

人間は迷い、間違え、そして根拠もなく

これがいいと決めつける。

そしてその無駄こそが、

自分で選んで生きているという実感を

人間にもたらしているのではないか。

 

生徒たちの学習の伸びというものは

とても面白いものがあります。

じゅくちょーは、長年の指導の中で

「ある程度の正しい学習方法」

というものを様々な種類持っています。

 

ですが、その方法を生徒に伝えたとしても

その受け入れ方は本当に様々です。

今まで学習成果を出すために

自分に合った方法を

探しに探しもがきにもがいていた生徒は、

目から鱗が落ちるようにみるみる吸収します。

 

ですが、あまり試行錯誤もすることなく

感覚的に思考せずに学習していた生徒たちは、

「何でそんなめんどいことをせんとあかんの?」

というような状態でやるべきことや

正しく段階を経て思考することを手放します。

 

おそらく、「納得」という目的地に辿り着くためには

もがく・あがく・なやむなどのプロセスを経て

辿り着く境地なのかもしれません。

 

こう考えてみると、

「楽をすることばかり

効率を求めることばかり

不快感を取り除くことばかり」

を求めて生きてきた人間にとっては

「納得」という境地にたどり着けないのかもしれません。

 

常に不満そうなある程度の地位にある大人たち。

彼らの行動や言動を考えてみる。

ふむふむ、「納得」だ。

ちゃん♪ちゃん♫

 

たろー
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