教会の姉妹である老婦人が召されました。
キリスト教式のお葬式は
「告別式」と言います。
天への凱旋する兄弟姉妹に
別れを告げるという意味合いです。
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ですので、
故人との別れは「寂しく」はあるのものの
「悲壮感」というものはほとんどなく、
花と賛美歌に溢れる、前向きなものとなります。
(実際は、めちゃ寂しいですし悲しいですよw)
英語圏で生まれる英文学には、
やはりこの思想が所々に散りばめられており
「ああ、一般日本人にはこのニュアンスは
なかなか伝わりづらいだろうなぁ」
というものも数多くあるように思います。
英語で行われる教会内の説教には
“shall” を肯定文で使うことが多々あります。
ブラックゴスペルの
“We shall overcome.” なんかは典型ですかね。
辞書には書かれませんが、
語源的なニュアンスは
「神が成し遂げて下さる」
「だから必ずこうなるのだ!」
といった強烈な宗教観を含む言葉です。
法律や憲法の中でも使われますね。
聖書を片手に宣誓する国ならではかもしれません。
“Shall I ~? / Shall we ~?” などの表現も
この土台を知っていると見方が変わります。
「(神がなすように命じられているから)
(私が)〜いたしましょうか?」
「(神がなすようにと命じられているから)
(私たちで)〜一緒にしませんか?」
もちろん、こんなニュアンスを持って
使う方は稀でしょうけどもねw
「神が成し遂げて下さる」の”shall” を
疑問形にすることも、そのニュアンスを
低減するのに一役買っているようです。
「成し遂げて下さるのですか?」
のニュアンスはかなり弱まりますよね?
“shall” の仮定法形として存在する
“should” もこう考えると奥深いです。
仮定法は「あり得ないこと」を伝えるために
「あり得ない=現実離れ→
現在時制から離れる=過去形で表す」文法です。
“shall 「神が成し遂げてくださる=100%」”
これを、あり得ないと言いたい→それは無い。
であれば、神でなければ人ならどうだ?
“should 「人の基準で行う=100%では無い」”
よって、「(人の基準で)〜するはず、すべき」
というアバウトな感覚も生まれてくるという訳です。
たとえ、AIの技術が進もうとも、
人が持つこのアバウトさや、
一見無駄であろう感情の揺らぎを
私は人間臭さや人間味として愛します。
たとえ、AIの技術が進もうとも、
効率やスピードでは無い、
ゆっくりと進む人間の思考や、
間違いだらけですすむ道草を
私は愛します。
悲しくはありません。
ただ、猛烈に寂しい今日この頃です。