人は誰でも、
自分の「弱さ」に向き合うことは
できれば避けたいものですよね?
春期講習会の日程は、ここからご確認できます。
「弱さ」に向き合うには、
「強さ」が必要です。
しかし、初めから「強い」人はいません。
だから、誰かの力が必要なのです。
子どもたちは、毎日のように
学習を通じて自分の苦手な部分、
すなわち「弱さ」に向き合っています。
知らないことを知ることは、
基本的には楽しいことです。
好奇心さえあればの話ですが。
いつしか、大人たちは
子どもたちが「知らないこと」を
責めるようになっていきます。
「知らないこと」を責められる経験が
強化されると、「知らないこと」は
悪いこと・嫌なことになってしまいます。
はい、勉強嫌い・学習嫌いの完成です。
出来ないことを、自分の力でできるようになること。
これが、学習の本来の目的であるはずです。
そして、できることが多くなればなるほど、
そのスキルを活かせる活躍の場が広がります。
そうです、誰かのために自分の力を
使えるようになっていくのです。
『他の誰かのために、自分の命を使う』
『自分の命が、誰かのお役に立てる』
『自分の存在が、誰から必要とされる』
これらのことって、本質的には
『喜び』ではないでしょうか?
学習の最終到達点は、決して
「苦しみ」などではなく
『喜び』のはずなのです。
ですが、子どもたちの幸せを願うはずの
親や家族の目的が変わってきました。
自身の、そして親族の子どもたちが
高い学力を備えていること自体が
ステータスとして目的化してきたのです。
これは、学歴社会の弊害です。
自分の学歴へのコンプレックスが
子どもへと向かっているのです。
この原因は、何でしょうか?
そうです。
自分の「弱さ」と向き合っていないからです。
いや、学歴のコンプレックス自体が
自分の「弱さ」だと勘違いしているからです。
学習の目的をもう一度、
確認してみましょう。
自分のスキルを高め、その力を
『他の誰かのために、自分の命を使う』
『自分の命が、誰かのお役に立てる』
『自分の存在が、誰から必要とされる』
これらが、本質的な学習の目的です。
ですが、
社会の中で働き、子育てをし、
家族を守り、家庭を守ること。
食事を作り、家事をこなし、
ときには地域に出て活動し、
ときには子どもの相談にものり、
ときには子どもと共に泣き、
ときには夫婦間の問題も解決する。
これらが、どうして
『他の誰かのために、自分の命を使う』
『自分の命が、誰かのお役に立てる』
『自分の存在が、誰から必要とされる』
と等しいことではないのでしょうか?
もうすでに、親であること自体が
十二分に学習の最終到達点に
達しているのではないでしょうか?
親や周りの大人たちは、
「自分のようになりなさい」と
子どもたちに自分の生き方を見せましょう。
「誰かを幸せにすることが自分の喜びであり
これが自分の幸せである」
この姿を子どもたちに見せられるなら
日本は生まれ変わります!
どうか、
学習の足らなさを「弱さ」ととらえずに
学習の先にある「誰かのため」や「喜び」、
学問自体の「奥深さ」や「楽しさ」に
目を向けられる子どもたちに育つように。
そして、そのことを生き方として
子どもたちに見せられる歩みが出来るような
じゅくちょーでありたいと思っております。